2014年10月22日水曜日

「顔のない眼」と「サイコ」

・顔のない眼』(ジョルジョ・フランジュ,1960,仏)と、『サイコ』

恐怖映画というジャンルがあるとすれば、このジャンルの傑作として、私はこの『顔のない眼』を先ず挙げる。1960年公開の映画だから、もう半世紀以上も前だが私はリアルタイムで観ている。この映画の強烈な印象は断片的ではあるが今でも記憶している。

先ず音楽(モーリス・ジャール)。たしか、チェンバロの独奏だったと思うが、不安定に下降していく旋律は、この映画のモノクロの深い陰鬱な画像と実にマッチしていた。ストーリーの怪異さ・残酷さにもかかわらず、画像に森閑とした叙情性を残していたのは・・・その冷たい叙情性こそが私の記憶の底に今も沈殿しているのだが・・・やはりフランス映画ならでは洗練さ故なのだろう。

この映画はBSで万一放送されることがあったら見逃すことの出来ない映画の一つである。ついでに書き足しておくと、ヒッチコックの『サイコ』。 私はこの映画を恐怖映画として挙げたい。この映画も1960年公開だが私はこれもリアルタイムで観ている。

今ではこの映画は細部まで知れ渡ってしまっているが、公開当時、この映画は上映中の途中入場が禁止されたほど、この映画のストーリーは秘密にされた。勿論TV等でのネタバレはそもそもあり得ない時代であり、観客は私も含めて全くの「初体験」だった。

私は今でも記憶しているが、この映画を観ているとき、何度となく観客から叫び声が上がった。人間というものは驚くとその直後は笑うらしい。その叫び声の後から忍び笑いが聞こえたものだった。

私はこの映画も好きでストーリーを全て知っている今も時折みている。バーナード・ハーマンの例の音楽も良いのだが、映像のカメラワークの巧みさにはいつも観ても感心する。例えばーーー
ノーマン・ベイツが「母親」を地下室へと運ぶ一連のシーン。
危険を察知したノーマン・ベイツは例の館の二階に上がる。カメラは背後から彼を追う。彼が階段を上がるとき、カメラも背後から、せり上がるように彼の背後を追う。
彼が「母親」の部屋に入りドアを閉めるまでカメラは彼を追い続ける。カメラは閉まったドアを写すと、カメラは階段と部屋の廊下を写しながら、徐々に天井へとせり上がっていく。カメラが天井に固定されると、ノーマン・ベイツが部屋から「母親」を抱いて出て来て階段を降りていく。カメラはそれを天井から捉えている。カメラには(即ち観客には)「母親」の頭部しか見えない。

このカメラワークが、実は、最後の有名な恐怖シーンの伏線となっている。そんなことは初体験の観客には分ろうはずがない。事実、私は、この一連の場面に何ら不自然さは感じなかった。ノーマン・ベーツは「母親」を地下室へと何ら問題なく移動させたと思っていたし、他の観客もそうだったろう。

私はこの映画を観るたびに、この場面での一連のカメラワークを、お見事と拍手せざるを得ないし痛快ですらある。さすがヒッチコックである。

一年ほど前だったかBSで『ヒッチコック サスペンスの深層』というドキュメンタリーが放送された。このドキュメンタリーで『サイコ』を含め、ヒッチコック映画の映像の技巧が詳しく解説されている。ヒッチコック映画の好きな人には、お宝のドキュメンタリーだろう。

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