2016年8月17日水曜日

『キャスト・アウェイ(Cast Away)』

『キャスト・アウェイ(Cast Away)』(2000年、ロバート・ゼメキス監督)
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BS放送で録画しておいたのを、以前、観た。
その昔、私は『ロビンソン クルーソー』という本を読んだことがある。フライデイという人物も登場したことも覚えている。 ところが、この映画にはサンデイもマンデイも登場しない。
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実際のところ、私達は、一見何事もない生活をしているように見えるが、それは実は錯覚であって (私を含め、錯覚のまま此の世を通り過ぎる人がほとんどだろうが) この人生という名の舞台が暗転すれば、我々はその錯覚を無残にも思い知らされることになる。
人生の暗転? その一つが最近、盛んに言われる超自然災害であったり、政治的・経済的システムの大崩壊であったり、また我々の全く予期せぬカタストロフィーの到来であったり・・・
ともかく、我々は気づこうが気づかまいが、人生という名の険しい山の崖っ淵を歩いているのは確かである。此れは『それを知らない』ということの幸いの良き例である。もし知っていたら、通常の人ならば昔の言葉で神経衰弱になっているだろう。
しかし、これまた、『それを知ろうが知るまい』が、人生の暗転は何人の例外もなく、来るときは必ず来る。そういう意味で我々は其のような己の人生の暗転の覚悟が日頃から必要である。
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我々の多くは、例えばマッチという火付け道具が如何に貴重なものか、水というものが如何に貴重なものか、又我々の身の周りにある『がらくた』が如何に貴重なものか・・・それに気づく機会が圧倒的に少ない。
文明という幻影に私達は眼が眩んでいるのである。明日は今日の、何の変哲もない連続だと信じきっている。
無理もない話である。明日が我が身の暗転の日だと思っていたら、事実上、精神がまいってしまうからだ。
明日は明日の風が吹く。これは良き人生訓である。但し、我が身には暗転の日が来ない、という前提があってのことだ。 ところが困ったことに此の前提が怪しくなってきていると思うのは私だけだろうか。
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昔、横井庄一さんという人がいた。ご存じの方も多いだろう。
掲題の映画の主人公は、横井さんに比べれば、生存のための条件は良いだろうと思うのは私の詰まらぬ邪推だが、それはともかくとして、この映画のラストで主人公の顔がクローズアップされる。この場面での彼の困惑した表情は印象的だった。

彼が生還した世界とは何だろうか。恐らく、昔の彼の『日常の世界』とは別ものになっていたに違いない。

原節子と高峰秀子

私は佐藤忠男の映画評論が好きである。この人の著作に『映画俳優』(晶文社)という本があって、ここに書かれている原節子と高峰秀子についての人物評論が、とても面白い。
彼女たちの映画を観ているよりも、佐藤忠男の軽快な文章によって、あぶりだされてくる彼女たちの生きざまを読んでいるほうが面白い。特に、高峰秀子に関する佐藤忠男の論評は秀逸である。
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原節子と高峰秀子と言えば、ある年代以上の人には知らない人はいない稀有の大女優だが、この本によると、彼女たちには或る共通点がある。それは、彼女たちは好きで女優になったのでなく、たまたま女優になってしまったという点である。
其のいきさつは此の本で活写されているから興味ある人は読んでみるといい。
彼女たちにとって、映画俳優という職業は、どうも居心地が悪かったらしい。
世間では原節子と高峰秀子と言えば、傍にも近付けぬ大御所に見えたものだが、実は当人達は自身の在り方がしっくりしなかったらしい。
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彼女たちが活躍した時代は、まさに映画の最盛期であり、そこで数々の傑作群を、彼女たちは共に残してきたのだが、そんな業績には何の未練のないかの如く、二人とも映画界を、さっさと去ってしまった。
よそ目には、その引き際の良さに敬服したくなるのだが、彼女たちにとってみれば、かってから憧れていた己自身の居場所に、やっと行きついた、というのが実情らしい。
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その彼女たちの生きざまはお見事というほかない。その見事さは、彼女たちが出演した映画の傑作群に裏打ちされていればこそだが、私を含めて並みの人間には、とうていできない人生の『至芸』と言えるだろう。
特に高峰秀子には『わたしの渡世日記』という有名な随筆があって、この人はタダモノではないことが分かる。私は此の随筆を昔読んだこともあり、再読もした。
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原節子の佐藤忠男の分析にも私は敬服するが、この分析を一読して、原節子の映画をみたら、おそらく此の女優さんが全く別人に見えるだろうと私は思う。
別人という意味は『この女優さんが如何に稀有な役者さんであったか』という意味である。

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2ch の『懐かしの邦画』板で、両者への書き込みが、いつも盛況なのは尤もなことである。

2016年8月16日火曜日

私のB級映画

私は小学生の頃は東映チャンバラ映画と漫画雑誌『少年』ばかりみていた。
光文社の『少年』で私のお気に入りの漫画は『どんぐり天狗』。
この天狗さんの顔が映画俳優:黒川弥太郎そっくり。ご存知かな。
ついでに書いておくと、今や神棚に祀られている手塚治虫の 『鉄腕アトム』より、私は杉浦茂の漫画のほうが面白かった。
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私は『笛吹童子』世代だ。『団塊』世代より数年、先輩。
『君の名は』世代より5,6年後輩。
あの頃の映画の混雑ぶりは殺人的だった。テレビは皆無だったから。
思い出すままに、我が思い出のB級映画を並べみようか。
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・『新諸国物語シリーズ』(「笛吹童子」、「紅孔雀」等等。中村錦之助と東千代之介等が常連だった。)

・『宇宙人東京に現る』(何故か東京。この映画の衣装担当が、かの岡本太郎センセイ。
私は大阪万博の「太陽の塔」だかを見ると此の映画を連想する)

・『伝七捕り物帳シリーズ』 (黒門町の伝七親分を演じたのが高田晧吉。鶴田浩二の先生ですな。鶴田浩二の「浩」の字は高田晧吉から貰ったのです)

・『放射能X』(放射能のあびたアリンコ共が巨大化してキーキー叫びながら襲ってくるのだった。)

・『光る目』(理由は忘れたが、或る町の、或る日、子供たちの目が光だすんですな。最後はどうなったかも忘れたが、この映画、なぜか有名らしい・・・)

・『一寸坊主』(江戸川乱歩の原作の恐怖映画ね。マネキンの手がポロリと落ちると、その手が人間の生肉の手だっりして・・・)

・『死の十字路』(江戸川乱歩で思い出したのが此の映画。殺した死体を、夜、車のトランクに積んで・・・。ともかく後味の悪い映画だったが私は此のテの映画が結構すきで、よくみたものだ)
・『地獄へ続く部屋』(これは洋画だっがが、映画が始まると、いきなり画面の奥から男の頭がスート現れるというシロモノだった。その場面が強烈だったので、話の内容はスッカリ忘れた。この男の頭と題名のみは今でも覚えている次第。確か、この男は、『シェーン』で、ジャック・バランスに殺された人物のはず。)
・『顔のない眼』(これはマジに傑作映画。上記のものとは比較にならないフランスの恐怖映画で、随分、昔、私は観たのだが、是非、再見したい映画の一つ。監督の名の今や暗記している。それはジョルジョ・フランジュ。あの『第三の男』のアリダ・バリも看護婦役で出ていた。)
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限りがないから、これで打ち切る。

2016年8月15日月曜日

映画『バグダッド・カフェ』(1989年日本公開)

以前、ディレクターズカット版の掲題の映画がBSで放送されたので録画しておいた。私は最近は映画を全く観る気分にはなれず、ここ2年ほど映画はご無沙汰していた。で、先日は珍しく観る気になり、此の映画を観た。
この映画は何十年か前、私は既に観ており、映画のお話は細かい箇所を別にして概要は覚えていた。肩の凝らない御伽噺だと。
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鬱々たる気分が抜けない私の日頃の心が、先日は映画を観る気になったのは、私の鬱が比較的薄らいだ故だろうが、しかし、それでも御伽噺しか私の厄介な心は受け付けないのだ。
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以前観たときも、そう思ったのだが、この映画のジャック・バランスが実に素敵なのだ。あの『シェーン』の彼が、こんなにも見事に歳とったことに私は惚れぼれとしたのだった。男性という人間は、こうでなければならない。
あのデブのおばさんも良いけれど、それよりもなによりも私は此のジャック・バランスを見たさに実は此の映画に再会したと言ってもよい。勿論、その大前提に此の映画が御伽噺という『やすらぎ』がなければならないのは言うまでもない。
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大体、映画というものは、小説もそうだけれども、オープニングが詰まらなかったら観たり読んだりはしないほうが良い。勿論此れは私の主観である。
その点、此の映画は私にはOKであった。 音楽から言うと『コーリング・ユー』がイカすのは言をまたないけれど、又さりげなく使われているJ.S.バッハは、鬱気味の私にはヤハリありがたかった。
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素敵なジャック・バランスと、あのデブのおばさんの未来は、バグダッド・カフェの未来と同様に幸福であり続けるだろう。

それこそが御伽噺の所以(ゆえん)であって、そうであればこそ現在の私は此の映画をみる気になったのだ。

櫛巻きお藤さんの唄への懐かしさ

私の大好き映画に『丹下作善余話・百万両の壺』(1935年、山中貞夫) がある。
この映画で、矢場の櫛巻お藤姉さんが長火鉢を前に三味線を爪弾きながら唄う一連の場面が、私はとりわけ好きである。
此の映画の丹下作善こと大河内伝次郎もさることながら、お藤さんこと新橋喜代三姉さんも私は大ファンで、江戸下町の「小股の切れ上がった」姉さんとは、こういう人を言うのだろう。 
山本周五郎の小説にも、よく登場する人物像であって、私の最も好む人間のタイプであるが、とても懐かしい気がする。

私は、以前、漫画・サザエさんを図書館から借りて読んだが、というより見たのだが、此の映画も漫画の世界であって、上記した私の郷愁は、我が人生にとって最も幸福だった漫画乱読時代への郷愁と言える。

2016年7月9日土曜日

『張り込み』

私はサスペンス映画が好きです(サスペンスの定義は、ここでは不問にして)。

そこで、サスペンス映画で、「人生を語れる」映画は、私がみた映画の中で何だろうと見渡してみますと、一つの映画が思い当たります。

その映画は、1958年(昭和33年)の『張り込み』(野村芳太郎監督)です。

「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われたりしますが、「映画も世につれ、世も映画につれ」だと思います。

つまり、映画は、その映画を観た人にとって、流行歌と同じように、極めて個人的体験として個人に密着していると私は思います。

私の自分史における映画は、まさに流行歌と同様に、その映画を観た当時の自分自身なり、自分に身近な「事」を、ありありと思い出させるモノです。

そういう意味では、各個人が観た映画は、その人の人生に組み込まれていくモノだと言えます。

繰り返しますが、『歌は世につれ、世は歌につれ』と言われたりする歌は唄と書いたほうが似合います。

自分史における流行唄は、その当時の自分及び自分を取り巻く世俗をまざまざと思い出せます。 

映画も全く同様に、その映画に描かれた世俗を、自身の追体験として、まざまざと思い出させます。

私における、このような映画の一つに『張り込み』(野村芳太郎監督があります。

この映画は1958年(昭和33年)製作ですが、映画に描かれる世俗も昭和33年あたりを時代背景としており、この映画は、この時代の世俗も丁寧に描写しています。

従って、この映画を観ますと、昭和33年あたりの世俗即ち 『その時代の何気ない普段の生活の様子』を、『ああ、そうだったな』と、ある意味で懐かしく想起します。

例えば、以下の場面。(但し、この映画は随分昔みたきりで再見していませんから、記憶違いがあるかも知れません。)

ベテラン刑事(宮口清二)と新米刑事(大木実)が横浜から九州へと向かう、三等列車に乗り込む場面があります。

時期は確か夏でしたから、この場面での列車内の人ごみの汗臭さ。新幹線はおろか、車内にクーラーなど無かった時代の話です。 あの頃の汽車の中を、まざまざと思い出させます。

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また此の映画で私が最も印象な場面は、刑事たちが、宿屋の二階で張り込む場面と共に、この映画の最後の場面です。

犯人(田村高広)が、刑事たちに拘束されて佐賀駅のホームに居る。そのとき、駅員の到着列車のアナウンスの声が雑踏に交じって聞こえてくる。「サガー、サガー」とアナエンスされる。

その「日常事性」と、拘束された犯人の「非日常時性」の対比が、その場面で、さりげなく表されていた。 実に見事な演出でした。

『紅鶴屋敷』

実は、私は、子供の頃、掲題の映画を、一日に2回みている。昔風に言えば木戸銭を二度も払って、同じ映画を映画館で同日に、二度もみたのだ。

なぜ、そんなに、この映画を気に入ったのか? 

今や、全く忘れてしまっている。大川橋蔵の映画だとは記憶していた。

そこで、検索に引っかかるかどうか半信半疑でgoogleで調べてみた。

そしたら、出てくるわ出てくるわ、その多さに驚いた。

「若さま侍捕り物帳」シリーズの一つであった。

そういえば、確かに、橋蔵の着ていた衣装は、確かに町人風ではなかった。

そのgoogleの検索での一つに、この映画のストーリーの概略が載っていた。それを読みながら、少しずつ、この映画の話を思い出した。

しかし、当時、なぜ二度もみたか、その理由は依然として思い出せない。

推測するに、おそらく、その日は、私は映画という非日常世界に居たかったのだろう。

当時の東映映画は、他の映画会社の映画よりも、ある意味で、極めて非日常の世界だった。

市川歌右衛門、片岡知恵蔵、月形龍之介、大友柳太郎・・・

かれらは、全て、今や懐かしき、非日常の世界の人々だった。

『冷血』

先の私の記事に書いた『デカローグ』同様に、随分、昔、観た或る映画の或る場面が大変印象に残っており、私は『デカローグ』同様に或るサイトで問い合わせた。

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(私の質問内容)

洋画です。たぶん『冷血』(1967年版or1980年版)だと思いますが、映画の内容は以下です。

犯人が処刑される直前、 ガラス窓越しに雨の降りしきる外を眺めています。そのガラス窓には雨のしずくが、 したたり流れていて、犯人の顔も写っています。

ガラス窓の雨のしずくが、 あたかも犯人が涙をながしているように映されます。この場面が実に印象的でした。 この映画に心当たりのある人がおられたら教えてください。再見したいと思いますので。

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そしたら、以下の回答を頂いた。

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(回答)

1967年、同名の『冷血』(原題:In Cold Blood)として映画化された。 監督・脚本はリチャード・ブルックス 。音楽はクインシー・ジョーンズが担当。小説に忠実に映画化されたが、ポール・スチュワート演じるリポーター役は、ブルックスが作り出したオリジナルキャラクターである。アカデミー賞4部門(監督賞・音楽賞・撮影賞・脚色賞)にノミネートされた。
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この回答をもとに、私の質問の場面を調べたら↓の場面だった。

https://www.youtube.com/watch?v=k4YuBxpQwqA

私の記憶違いがあって、降りしきる雨の滴が、ガラス窓越しに犯人の顔に写る場面だった。

いずれにせよ、この場面は私に強烈な印象を与えた忘れざる場面だった。しかし、この場面の前後は忘れている。確か、処刑される場面もあったと思ったが私の記憶違いかも知れない。

私は此の映画のトルーマン・カポーティの原作を読んでないが、上記の映画に比べて、面白い、という言い方は妥当ではないが、どうだろうか。

『カポーティ』という映画もあって、この映画も高い評価を受けているようだ。しかし、私は此の映画も観ているが、正直なところ、あまり印象には残らなかった。

余談だが、映画の原作で映画同様に私が面白いと思ったのは『エクソシスト』(ウイリアム・ピーター・ブラッティ著)と、『インド夜想曲』(アントニオ・タブツキ著)である。

『デカローグ』

以下の話は、私が盛んにWOWOWでの映画を観ていた頃だから、今から20年程前になる。

あるとき、大変、印象に残る映画を観た。
そういうとき、私は、大概、その映画について覚えているものだか、どういうわけか其の映画の題名や監督の名を忘れてしまっていた。

ただ、その映画の内容の概略は覚えていた。
最近、どうしても其の映画の題名や監督の名を知りたくて、或るサイトで問い合わせた。

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(私の質問内容)

20年程前、確かWOWOWで放送されたオムニバスの洋画映画です。或るアパートの住人たちの、さりげない日常生活が描かれた佳品でした。 幾つかの話から構成されていて、各話の主人公(アパートの住人)が異なり、其の話でアパートの他の住人が、さりげなく登場します。 (話通じましたか?)

確かデンマークの映画だと思いましたがハッキリしません。てっきりラース・フォン・トリアーだ思って調べましたが違いました。 かなりマイナーな監督だと思われます。私は此の映画忘れ難く、心当たりのある方がおられたら教えて下さい。

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そしたら次のような回答を頂いた。

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(回答1)

有名監督の有名作品ですけど、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』ではないでしょうか。1989年の作品で、ポーランドのワルシャワが舞台です。1話あたり55分程度で、全10話あります。
http://movie.walkerplus.com/mv29749/

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(回答2)

日本での劇場公開は1996年。その後もキェシロフスキ監督特集なんかで何度か再公開されてたように記憶してます。第5話と第6話は再編集されて『殺人についての短いフィルム』『愛についての短いフィルム』という長編映画になっています。
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インターネットというものは重宝なものだ。

頂いた回答を見て、あ~あ、そうだった、と思い出した。

(余談だが昔、高校生の頃、デカとは十のことだと習った記憶も戻ってきた。だから全十話。)

現在、私は映画は全く観なくなったが、もし、このデカローグが、NHK BSで放送されたら、録画ようと思っている。

なお、Wikiで此の映画↓のように紹介している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AB%E..

2016年6月26日日曜日

『東京物語』(小津安二郎)の厳しさ

世評高い『東京物語』は私は若い頃より好みませんでした。その理由を述べるのは簡単ではないのですが、一口で言ってしまうと「厳しすぎる」からです。小津の人間を見る眼がとても厳しい。
その厳しさは、この現実において或る年代を越えた人には、実感できる人が多いでしょう。
人間は常に天使であることは出来ません。時には「いじわる」な存在にもなるのが現実の人間です。  ここで天使は原節子。「いじわる」は杉村春子。 この意味、お分かりですね。
 この『東京物語』で原節子に「私、そんな良い人ではありません。」と小津は語らせてはいます。
しかし、此の映画を俯瞰してみると原節子は天使です。杉村春子は、この現実世界の、天使でも悪魔でもない普通の人間です。
 この映画で私が不自然に感ずるのは、天使(原節子)と、現実の人間(杉村春子)が同居しており、小津の眼は明らかに杉村春子に厳しい。私は小津の、普通の人間(此の現実の人間)に対する厳しさに、ついていけないのです。共感できないのです。人間て、天使ではありませんから。
『東京物語』は私にはお説教に見えるのです。大変厳しい先生のお説教。
この『東京物語』と対照的なのが『戸田家の兄妹』で、この映画の小津の眼も大変厳しいのですが、その厳しさには微笑も残されていて勧善懲悪の楽しさがあるのです。『東京物語』のような、徹底した「みもふたもない」厳しさはありません。
 私は小津映画で最も好きな映画は『麦秋』ですが、この映画では『東京物語』の厳しさは昇華されていて、小津の眼も大変穏やかであり、それは諦観に裏打ちされていて、ある年代を過ぎた人にとっては静かな共感をもつことができます。 初夏の空。クルクル回る風車。 少年たちが浜際歩くときの静かな白い波。 これらの何気ないショットには、お説教など皆無です。
 この映画を小津は『或る輪廻のようなもの』を描きたかった、という意味のことを語っています。

この映画に登場する人物たちは私たちの周りにいる、天使でもなんでもない普通の人たちばかりです。『東京物語』のようなお説教も皆無です。 そして、この『麦秋』に常に底流している或る諦観----これに私は素直に共感できるのです。

2016年4月3日日曜日

『悪魔の首飾り』(F.フェリーニ)

以下、余談。

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或る会話。

・明智小五郎: 君、あの少女は幽霊かね?
・金田一耕助: いや、私は違うと思ふ。むしろ化け物かも。
・小林少年: ボク見たよ。女子トイレを覗いたら居たよ。 あ!失言。

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この映画の原作はポーの『悪魔に首を賭けるな』だが、F.フェリーニは全く別ものに脚色、というより別作品に仕上げている。

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随分、昔になるが、2CHで此の映画が話題になった。私が、此の映画の邦画名が何故『悪魔の首飾り』なのだろうか、と発言したら、或る人が以下のように答えた、いわくーーー

『フェリーニの此の映画のタイトルは「トビー・ダミット」だが、それでは客の受けがない。だからオレは此の映画の宣伝マンになって考えたんだ。それで思いついた。

「悪魔に首を賭けるな」→「首にかける」→「ネックレス」→「首飾り」 だから『悪魔の首飾り』さ。』

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私はなるほどね、と思って其の人の機知を褒めた。

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ところで、此のF.フェリーニの短篇はポーの原作を、はるかに凌(しの)いだ傑作で、フェリーニ・ワールドを短時間で堪能でき、私の最も好きな映画の一つ。

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此の映画の最後のエンディング・ロールで、確かE.A.ポーの肖像画を背景にして、ニーノ・ロータの不気味な音楽が流れる。

また、テレス・スタンプが此のポーの肖像画にそっくりな場面があって、フェリーニの芸の細かさにシビれたものだ。

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テレス・スタンプは、まさに適役で、これに匹敵する映画での適役さは、ヒッチコックの『サイコ』のアンソニー・パーキンス。

女性で挙げると、『誰が私を殺したか』のベティ・デイビスだな。