私はサスペンス映画が好きです(サスペンスの定義は、ここでは不問にして)。
そこで、サスペンス映画で、「人生を語れる」映画は、私がみた映画の中で何だろうと見渡してみますと、一つの映画が思い当たります。
その映画は、1958年(昭和33年)の『張り込み』(野村芳太郎監督)です。
「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われたりしますが、「映画も世につれ、世も映画につれ」だと思います。
つまり、映画は、その映画を観た人にとって、流行歌と同じように、極めて個人的体験として個人に密着していると私は思います。
私の自分史における映画は、まさに流行歌と同様に、その映画を観た当時の自分自身なり、自分に身近な「事」を、ありありと思い出させるモノです。
そういう意味では、各個人が観た映画は、その人の人生に組み込まれていくモノだと言えます。
繰り返しますが、『歌は世につれ、世は歌につれ』と言われたりする歌は唄と書いたほうが似合います。
自分史における流行唄は、その当時の自分及び自分を取り巻く世俗をまざまざと思い出せます。
映画も全く同様に、その映画に描かれた世俗を、自身の追体験として、まざまざと思い出させます。
私における、このような映画の一つに『張り込み』(野村芳太郎監督があります。
この映画は1958年(昭和33年)製作ですが、映画に描かれる世俗も昭和33年あたりを時代背景としており、この映画は、この時代の世俗も丁寧に描写しています。
従って、この映画を観ますと、昭和33年あたりの世俗即ち 『その時代の何気ない普段の生活の様子』を、『ああ、そうだったな』と、ある意味で懐かしく想起します。
例えば、以下の場面。(但し、この映画は随分昔みたきりで再見していませんから、記憶違いがあるかも知れません。)
ベテラン刑事(宮口清二)と新米刑事(大木実)が横浜から九州へと向かう、三等列車に乗り込む場面があります。
時期は確か夏でしたから、この場面での列車内の人ごみの汗臭さ。新幹線はおろか、車内にクーラーなど無かった時代の話です。 あの頃の汽車の中を、まざまざと思い出させます。
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また此の映画で私が最も印象な場面は、刑事たちが、宿屋の二階で張り込む場面と共に、この映画の最後の場面です。
犯人(田村高広)が、刑事たちに拘束されて佐賀駅のホームに居る。そのとき、駅員の到着列車のアナウンスの声が雑踏に交じって聞こえてくる。「サガー、サガー」とアナエンスされる。
その「日常事性」と、拘束された犯人の「非日常時性」の対比が、その場面で、さりげなく表されていた。 実に見事な演出でした。
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